ゲームプログラマという仕事に就いているからと言って、全員が全員、お客様を楽しませることに長けているわけではない。例えば僕自身、お客様を楽しませる事を、まだ十分理解しているとは言えない。
優れたゲームプログラマと、優れたゲームデザイナがイコールで結べないのは理解できるし、もちろん人によってはイコールな場合もある。多くの場合は、ゲームデザイナが求める仕様を完璧にコンピュータ上にインプリメントできれば、プログラマとしては十分だと言われることもある。要するに、面白いか面白くないかは、デザイナの問題だと。プログラマは単にデザイナの言うとおりにプログラムできればいい。
僕自身は「優れた」ゲームプログラマではないので、それすらもできていなかったりするが、それ以前に、やっぱりデザイナーと面白いと感じることは違うし、それぞれが創意工夫を(きっと)凝らして、少しでも楽しくなるようにしようとするのは当然のことだ。プログラマでなければ思いつかない楽しさは、ざらにある。
では、「楽しい」「面白い」っていう感覚は、何?
ゲームを作る上で必ず考えなければいけない事だが、あまりにも抽象的で感覚的な事なので、誰もそれを定義していないように思う。音楽の世界においては、人が心地よく聴ける曲を作る目的に、コード進行を学んだり、楽典を学んだりすることで、知識としてそれらを蓄えることが出来る。また、絵の分野においても、紙の上にどう配置すると、どのような心理的印象を植えられるか(構図)、また、色使いが感覚に与える影響などもやはり、知識として得ることができる。映画でもずいぶんと学べる。たとえばカメラワークにおいて、二人の会話を撮す場合に、こうするとこういうことになるからダメだとか、そういう理屈があるていど確立している。
それらは「楽しい」「おもしろい」を定義しているわけではなく、絵として、音楽として安定した物を作るための手法や技術、テクニックを定義しているわけだ。
ゲームに関して言えば、「プログラム技術」は学べても、ゲームデザインについてはなかなか学ぶことはできない。どういうデザインをすると、人は安定しておもしろいと思うのか、楽しめるのか。という事に関しては、ほとんど「デザイナの力量・感覚」にゆだねられているように思う。
これが、優れたプログラマと優れたゲームデザイナーとがイコールで結べない事に関連している。
PC(DOS/V)の世界において、「メガデモ」というプログラムがあるが、それを作っている彼らは間違いなく技術的には優れている部分を持っている。メガデモを作るのはある意味プログラマとして憧れであるし、パソコンの性能をプログラム技術によって何倍にも見せかける「魔法使い」に見えることもある。
だだし、彼らが作ったゲームの多くは、小手先のテクニックに目がいってしまった出来損ないであることが多々ある。もちろん中にはデザイナとしても優れている人もいる。
逆に、プログラム歴1ヶ月に満たない人が作ったゲームのほうが、面白いと感じる場合もある。それが示すのは、ゲームの楽しさがプログラム技術ではなくて、ゲームデザインの上から発生しているということだろう。たとえチープな技術でも、ゲームを楽しくする方法は存在するはずだと。(もちろん、市販ゲームを作ろうと思ったら、それなりの技術は持っていた方がいいだろうが)。
結局、再び問題になるのは「で、結局のところ楽しいって何?」
歴史が繰り返すように、この議題も延々と繰り返し論じられるテーマだと思う。僕も、陰ながら一人妄想を繰り返し、僕なりの結論を探していきたい。