今回はまた少し堅いお話に戻るかも知れない。漠然とした話なので、おそらくとてつもなく無駄で、長い文章になると思われる。
プログラムを作る、曲を作る、絵を描く、文章を書く……。人はこれらをどうやって体得していくのだろうか? また、「出来ない人」「出来る人」はどこで差がでたのか、さらに、「すごく良くできる人」はなぜそうなるのか…。考えてみた。
すでにいろいろな「知識」を持っている現状の僕は、例えば自分で苦労して描いた絵を見て、あまりのデキの悪さに落胆する。「ああ、僕の絵はなんて醜いんだ!」「僕には絵を描くセンスがない」「絵心がない」。こうして僕の中では、「絵は無理」という結論に達する。
子供の頃、少なくとも僕は絵を描くことを嫌っていなかった。いや、どちらかと言えば絵を描くことは、かなり好きだった。クレヨンでぐりぐりと線を引くことそのものが楽しくて、それが「見栄えの良い」絵になろうがなるまいが、お構いなしだった。「人の顔」のつもりで描いた絵が、大人の目に「単なる線の集合」としか見えていなかったとしても、それは僕にとっては完全な「人の顔」だった。
でも、今はどうか? 自分の知識にある「こう描きたい絵」のイメージと、実際に自分が描く絵とのギャップに苦しむ。「こんなの、人の顔じゃない!!」
音楽の場合も同じく、昔は「音が鳴ること」が楽しくて、理屈は関係なく、ひたすら音を滅茶苦茶に並べて「作曲した」と言っていた。それに自分自身大満足して、とても楽しかった。時に偶然曲らしくなった物は、僕の中で「名作」になり、さらに大きな喜びとして幼い僕の心を揺り動かす。
プログラム。これまた同じく、意味も分からず入力した文字に対して、コンピュータがなにかしらの反応をすることが楽しかった。当時、それを「エラーメッセージ」と理解できなかった僕は、コンピュータといかにも対話しているつもりになっていた。
知識がないことが、素直に物事を喜び、「次もやってみよう」と思う動機につながっていたように思う。
だが今は……。「こうしたらこうなるべき」「これは、こうあるべき」「こうでなければ間違っている」。そんな知識が僕の心を覆っている。
幸い、そんな中でもプログラムに関しては少し実力が伴うようになってきた。その過程は、もちろん、ある程度の知識を得たというのもあるが、それ以上に「トライ」し「エラー」し「トライ」して「エラー」を出すという連続の中から「経験的に発見したルール」を蓄積していったからと言うのが大きい。その後で、「素早く完成させるにはどうするのか」「より効果的に作るにはどうするのか」という知識を積極的に取り入れるようになった。つまり、「高度な知識は、後付けで得た」わけだ。
音楽に関して言えば、僕が音楽をはじめて作ったと言えるのは中学2年あたりだったが、このころはまだ「音楽を聞き分ける耳」というのが完成されていなかったようで、チープな曲を作って満足し、「なるほど、こうすればそれっぽく聞こえるのか」という、やはり「トライ」&「エラー」の繰り返しから、曲を紡いでいた。
ある時、作曲方法を書いた本を手にして、思ったことがある。
「僕の作っている曲は、これに書いてある物とは違うぞ…」
「僕は、間違っている?」
さらに競争世界にさらされるうち「人と比較すること」を学び、それが災いして「僕が作った物は彼らが作る物より劣っている」と思うようになる。そして、現在、自分が満足いく音楽が作れないもどかしさ、どうやればいいのか分からないという歯がゆさを感じ、ちっとも曲を作ることが出来なくなった。
僕個人の思いとしては、これらの創作活動にかかわる物は、知識を得る前にとにかく一度やってみることが必要だろう。「経験的に発見したルール」たちは、自分自身が完全に納得した状態であると言ってもいい。そういった積み重ねをたくさんしたあとで、理論を学べば、「なるほど、あのルールは、これと同じなんだ!」と自分の正しさを確認できる。
大人になるにつれて自分の中の「知識」が邪魔になって、なかなか新しいことに挑戦しなくなってくる。やる前から出来ないとか、無理とか理由をつけて、逃げる。仮に何かを作っても「はずかしい」。
「できない」のは当たり前のことだ。
今、絵を描くことが得意な人の多くは、誰に教わったわけでもなく、ただ好きだから描いているに違いない。音楽を作り出すことが得意な人もまた、最初は何がなんだかわからないまま、自分の信じるままにやっていた人がほとんどだと思う。幼少の頃からピアノを習っていたから……というのも、日々のピアノの練習のなかで、気持ちよく聞こえるメロディーラインや和音を自然と「発見」していたからこそ、曲作りができるようになったのではないか。
「できない」「できる」は関係なく、とにかく「やった」経験が、彼らにはあるはずだと思う。
そういうことを一切やらずにいきなりできるような人のことを「天才」「センスがある」と言う。そうではない人、つまり「とにかくやった人」たちは、天才でもなければ、そこにセンスがあったわけでもない。ただ、センスをひたすら(無意識のうちに)磨いていただけだ。
僕は「できる・できない」を「センスがある・ない」に置き換えることが嫌いだ。今現在「出来ている人」たちのことを「彼はセンスがあったからだよ」と軽く言い流し、「自分にはセンスがないから」とあきらめる。ふざけるな。何もないところから突然にして出来てしまうような人間が、果たして存在するか??
否。
程度の差こそあれ、出来ている人たちは過去にそれなりの「経験」と「発見」をしている。
中にははじめてのことにも柔軟に対応でき、いきなり開花してしまう人もいるだろう。そういう人はおそらくそれに近い経験を過去に積んでいるのだと僕は思いたい。たくさんの経験をしているからこそ、素早く物事を理解し、「発見」し「体得」できる。それは、多くの人が言うような「天才」や「センス」には値しない。
要するに僕が言いたいのは、どんなことでもあきらめず時間をかけて「経験・発見・体得」していけば、誰しもが「できる」ようになるということだ。何かにつけて「できない」と言うのは、やってみて「みすぼらしい物」を作っている人より恥ずかしい。
努力すれば「何でもできる」とか、プロになれるとは思わないが、少なくともそれなりに出来るようにはなる。プロになろうと思う人には「素早く発見できる」ための「経験」、言い換えると、多くの人が言うところの「センス」が必要だと思う。
そんなわけで、僕自身、いろんなところで「それは無理」「僕にはできない」と言うことがあったが、これからは少しだけ自粛したい。
なぜ少しかって?
だって、そうは言っても出来ない物はできないんだよ〜(T-T
怒った?(笑)